広島、横川(よこがわ)、己斐(こい)といった駅前を中心にヤミ市がにぎわい、中心部にやっとバラック建ての商店が建ち始めた昭和23〜4年ごろ、両親や知人に原爆で失った遺族、市民たちが追善と供養のため、手作り灯ろうを川に流したのが「とうろう流し」の始まりと言われています。灯ろうには、亡くなられた方の名前(法名または俗名)と流した人の名前(施主名)を書き込むのが一般的ですが、最近では国内外から旅行で来られた方々が「平和への思い」を書かれる光景も目立つようになりました。長い歴史を持つ「とうろう流し」は「慰霊」と「ピースメッセージ」の両方の意味を持つようになりました。
広島独特の「とうろう」の由来
日本各地には、昔からお盆の終わりの日に小さな灯ろうや、麦わらで作った船や川を海に流す「精霊舟」とか「精霊流し」と呼ばれる風習があります。長崎市内で8月に行われる精霊流しの行事は、その儀式の発展型でしょう。これらは、盆の期間中家庭に戻って来た祖先の霊を、精霊船に乗せて、死者の世界へ無事送り返すための海洋民族の儀式として始まったもののようです。そして、広島には「安芸門徒」特有の、お盆にお墓で色とりどりの灯ろうを飾る「盆灯ろう」の風習があります。それと「精霊流し」の風習が合体したのが、現在の「とうろう流し」のルーツだと考えられています。(いつ、誰が始めたかは定かでありません)
原爆で親族を亡くされた人たちは、毎年8月6日に灯ろうを流すことが供養であると思われています。まさにお盆にお墓参りされるのと、まったく同じ思いなのです。
かつては「広島の復興」を祝うお祭りだった
昭和30年代になり、広島は全国でも有数の成長率を誇る都市となり、平和大通り(百米道路)は新しい都市計画の象徴として全国から視察団が訪れていました。そんな中、8月6日は広島市民にとって、お昼までは死没者の霊を弔う日、夕方からは広島の復興を祝うお祭りの日となっていたようです。昭和39年、平和記念公園一帯の交通渋滞を理由に、花火大会が広島港祭りに吸収、合併され、流灯行事だけとなりました。36、7年ごろには6日夜から3日間、計2万個から3万個も流されていましたが、現在では六つの川の数カ所から約1万個が流されています。
なお、現在では環境問題に配慮して、流された灯ろうは下流にて引き上げられていますが、昔は四国の辺りまで流れ着いた灯ろうもあったそうです。
実際に行っているのは
以上が、配布される資料の文章です。
実は、私自身も被爆2世本人ですが、物心つくころから祖父や祖母からリアルな被爆体験を聞かされておりました。広島駅裏の自宅で被爆し、奇跡的に助かって懸命に今日の今までを原爆症を負い目に歯を食いしばって生きてきた苦労話を涙流しながら語っていたことを思い出します。
祖父の話は、超スーパー悲惨なものでしたよ。
死体の処理の苦労話。毎日、毎日繰り返し処理しても処理しても追いつかない状況。腐敗臭と焦土のにおいは独特ないやなものだと遠い眼で語ってくれました。助かった男性は、ほぼ遺体処理を手伝うことになったそうです。大八車に積み重なった遺体を、ひいては処理場まで運ぶ。惨すぎて直視できないことも多々あったようです。大八車に乗せようと遺体を引っ張ると骨と肉がひきちぎれてしまい、骨だけが車に乗ってた、とか。
一気に食欲減退になるほど、悲惨な話は続きました。でも、祖父や祖母はあまり語ろうとはしなかった気がします。思い出したくない、というのが本音のようでした。
そして、祖父や父は奇跡的に生を受けたこの命を大切にするように、と私に言い聞かせてくれたように記憶しております。
私も自分の子や孫に、祖父母の体験をなるべく事実に基づくよう語ってやろうと思っています。
改めて、原爆で亡くなった方々に哀悼の意を捧げます。